“学者の研究”と聞くと、敷居が高そうに感じるものだ。専門用語が並び、難解な言い回しが続く。「今日は日曜日です」ですむものを「さまざまな考察と明治以降の近代日本における歴史的習慣をふまえた上で、本日が日曜日である、という事実を認定するのに特段の支障はないものと思われる」と書かれたのではたまらない。
未知のことを解明するのはスリリングな作業である。殺人事件の犯人捜しと同じだ。研究は疑問からスタートする。「なぜ?」という知識欲だ。それに対して「真相はこうではないか」という仮説をたてる。
実はこの仮説がくせ者であることは、犯罪の見込み捜査失敗談などからも想像がつくだろう。しかし、何はともあれ「なぜ?」に対する答えをみつけ、そこに至った理由をつまびらかにし、それが自分だけの思いこみではないことを他の専門家たちに検証してもらえる形にして発表するのが論文だ。書きようによっては小説仕立てにもできるが、それは行き過ぎ。冷静さと客観性を欠かしてはならない。
音楽の分野では「なぜ?」に対する答えが常に明確な形で得られるとは限らない。論文執筆の準備は資料集めから始まるが、そもそも“音の響き”として味わってなんぼの音楽の根本であるべき音響資料は、ちょっと時代が古くなれば皆無に等しい状況となる。「A夫人がB嬢より遅めに演奏したところ、作曲家が“これぞ理想のテンポである”と叫んだ」ことは史実として確認できても、それが具体的にどんな速さなのかは「神のみぞ知る」である。
児島新はボンのベートーヴェンアルヒーフの研究員として活躍した、日本の誇る研究家だ。惜しいことに今から20年以上前にまだ50代の若さで亡くなってしまったが、その業績は素晴らしい。本書は児島の論文集だが、何より「読んでわかりやすい」のが嬉しい。専門的な題材ではあるが、「音楽学者が追求していること」の具体像を得るには格好の書籍ではないだろうか。(春秋社)