Aは「エー」ではなく、「アー」と読む。ドイツ語だ。先日この書評ブログに彗星のごとく登場した、世界を股にかけて活躍中のピアニスト、練木繁夫が初めて書き下ろした本である。練木がいかに文才に長けているかは、書評空間にある投稿文を読むだけで一目瞭然だろう。
“A”というと、事と次第によってはかなりアブナイことを指す場合もあるが、音楽家である練木のAは「ラ」の音のことである。ポ、ポ、ポ、ポ〜ンという時報の時に聞こえる、あの音だ。これは、複数の演奏家が合奏する際、事前にお互いの楽器のピッチを合わせるために使われる。一説によると、赤ちゃんがこの世に生まれた時に発する「おぎゃー」という泣き声のピッチは世界共通で、時報の音と同じだという。「本当?」とも思うが、あながち嘘ではないらしい。
サブタイトル「ピアニストと室内楽の幸福な関係」からも推察できるように、ここには室内楽ピアニストとしての練木の、さまざまな経験や飽くことのない探求心に裏打ちされたメッセージの数々が熱く語られている。その内容は多岐にわたり、彼の博学には感嘆させられるばかりである。練木は指導者としても常に第一線で活躍しているが、そうした視点からのアドバイスも貴重だ。同業者としては、たくさんの仲間、とりわけ若い人たちに読んでもらいたい。ピアノを勉強している学生にとっては必読の書と言えよう。
ところで、練木の私人・公人としての生きざまは、私があこがれるもののひとつである。以前は彼を「雲の上の大先輩」として見上げるしかなかった私も、年を経るに従って年齢だけは「彼が少し先輩」の域まで追いついた。しかしこれが限界で、今後並ぶことも、追い越すこともできないだろう。それほど大きな存在なのだ。私の拙文ごときで「ネリキ」などと呼び捨てにしてはいけないのはわかっている。しかし書評の中、尊敬をこめた表現ということで、お許しあれ。 (春秋社)