クラシック音楽界で押しも押されぬスターとなった佐渡裕。その佐渡は修業時代に「バーンスタインに会うためにアメリカに行ったのに、そこからウィーンに飛ばされて放りっぱなしにされてしまったのです。世の中からつまみ上げられて、ボーンと捨てられたみたいな感じでした(本書145ページより)」と語る。まさにその時のウィーンに私は住んでいた。
ウィーン時代の佐渡には「身体は大きいよなあ。ノーテンキな所もあるけれど、いいヤツや。ほんとに有名になってくれるのかなあ…。そのうち偉くなったら仕事ちょうだいねっ」みたいな気持ちを抱いたものだ。一緒に食事をしたり、遠足を楽しめたのは幸いだった。周知の通り佐渡のキャリアは時を置かずして見事に開花し、一気にスターダムに登りつめていくことになる。
バイタリティーの塊のような佐渡が音楽の本質をどうとらえ、設定した目標にどのように肉薄していくかは、誰もが知りたいところだろう。それが佐渡自身の言葉で次から次へと繰り広げられる。佐渡の聞き手として登場する辻秀一は私が尊敬するスポーツドクターであり、私にとってはライフスキルに関する貴重なアドバイザーでもある。(このブログで昨年12月に紹介した『ほんとうの社会力』は、辻の数多い著作のひとつである)。
辻は「人間、大人になると物事を“損得”で判断するようになり、自分は本当は何が好きなのかを見失ってしまいやすい」という。私自身「今井さん、あなたは本当に音楽が好きですか」という辻の問いから自己を見つめ直し、さまざまな発見があった。佐渡の人生はまさに「損得勘定抜き」なのである。「好きなこと、やりたいことを見すえ、その実現を心から信じて行動する」という、できそうでできない生き方なのだ。
ライフスキルのひとつに「楽しむ力」という概念がある。これに関してたぐいまれな資質を持っているのが佐渡である。野球を楽しめるからこそ、あそこまで到達できたイチローと同じだ。サッカーの中田も、マラソンの高橋も、ゴルフの宮里も。楽しいからこそ一所懸命になれるのだ。
佐渡はその充実感をまわりの人と共有する事にも大きな喜びを感じている。こんな素敵な人間がいることに微笑み、あこがれ、思わずエールを送りたくなる──そういった「自分の心のエネルギーが増加する本」としてもお薦めしたい。 (ポプラ社)