著者の大野は歌手である。円熟の境地にさしかかる50代で、すばらしい声の持ち主だ。もともとは西洋音楽のジャンルからスタートしたものの、そこに自分自身と融合しきれない一種異質なものを感じ、日本語で歌う、日本人としての表現を追求するようになった。自分の世界を自分でプロデュースしながら、今日も理想を追い続けている。メディアのスポットライトがまぶしい表舞台ではないが、先駆者が少ないだけに「自分が求めているものは何か」「自分は何をやりたいのか」を自身に厳しく問い、模索し、自力で道を開き、それを全身全霊を使って表現する、まさに「自分を生きる」道を邁進中の芸術家である。
その大野とこの秋にコンサートをやることになった。プログラムはすべて日本語の歌である。しかし単に歌詞にある情景をそのまま追体験するだけの「日本歌曲のコンサート」ではない。かの“三大テノール”のように、声の量と質とを売り物にするのではなく、表現したいのは、言葉を通じて相手の心を射ぬく「気」なのである。言葉に魂をこめるのだ。歌手にとっては「歌う」という行為がまさにその作業だが、それを支えるピアニストはどこまで「言葉」に肉薄できるのだろう。赤い血糊の生暖かさ、身を切られる痛み、あるいは亡き父への想いを、どこまでピアノという楽器の音に託すことができるのだろうか…。大きな、未知の、しかしやりがいのある課題である。
大野の心情を少しでも理解したいと思い、彼の著書を紐解いた。
うむ…、難解、とは言わないが、やさしくはない。しかし雲の間からときおり青空がのぞくように、ふと先が開けることがある。大野が示したかった本質は、きっと白雲の向こうの青空のようにあっけらかんとしたものなのだろう。そこになかなか行き着けないのは著者が悪いのか、読者が悪いのか…。
しかし一読の価値ある本であることは確実だ。西洋の視点で西洋の美、東洋の視点で東洋の美を論じた芸術論ではない。もっと普遍的に「人として何を美しいと感じるか」そして「美に託された気の存在」を東洋・西洋の枠を超越してとらえようとしているところに共感を覚える。
文化とは何だろう。時空を越えて存在する美に秘められている力をもっと感じてみたくなる本である。(芸術現代社)