同じ著者が執筆した『新「根性」論』という新書を今年6月のブログで紹介したばかりだが、読者ターゲットを音楽家に絞り込んだ、読みやすく楽しい本が出版されたので、重ねてご紹介したい。題して『演奏者勝利学』。本来芸術の世界に“勝ち負け”は似合わないが、こと音楽に関して最近はコンクールの話題も目にすることが多くなった。今年5月から6月にかけてテキサスで行われた第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンペティションという世界的にも高い難易度を誇るコンクールで見事優勝を果たした盲目のピアニスト辻井伸行君のことなどは、まだ記憶に新しい。
著者の辻は『スラムダンク勝利学』を皮切りに『風の大地 人生勝利学』『親と子の受験勝利学』など「勝利学シリーズ」となる本を複数上梓しており、その流れで本書にも同じ名前がつけられたようだ。しかしこれは音楽で人に勝つための指導書ではない。自分に負けない、つまりストレスに屈することなく自己のベストパフォーマンスを披露できるようになるために役立つ数多くの秘策がに触れることができる“虎の巻”なのだ。
ステージ上の演奏家の心理やストレスは、試合におけるアスリートが直面するさまざまな重圧や不安とほぼ同じだろう。衆目の集まる中たったひとりで演奏しなければならにピアニストの心理は、フィギュアスケート選手のそれと、おそらく限りなく似ているのではないかと思える。スポーツの場合はタイムや得点によって「目に見える結果」が開示されるため、「何をどうしたらどのような結果になったか」という因果応報がわかりやすい。音楽の場合もコンクールや試験では結果が数値化されて順位が決められるものの、誰にでもわかるような優劣はともかく、トップレベルの競争になると評価の基準はきわめて曖昧だ。ほとんど「好き嫌いで判断される世界」と言って差し支えない。実情は料理の批評とそう変わらないのである。
さまざまな試行錯誤と、それによって導かれた明白な結果をもとにした研究が積み上げられたスポーツ心理学の成果は、応用スポーツ心理学として音楽の世界でもたいへんに役に立つ。そればかりかスポーツで通用し、音楽にも通用することは、人間の実生活そのものにも通用するのだ。これが「ライフスキル」といわれるものである。
本書を読破すると、音楽家のライフスキルに関する知識が増え、大きな充足感を味わうことができる。しかし本当の問題はそこからだ。そうして得た知識をいかに実践していくか、というところである。6月のブログでも触れたが、これがほんとうにむずかしい…。しかし知識がなければ何も始まらない事も、また真理である。まずは読むこと。たとえ読むだけで終わったとしても、決して後悔しない内容の本である。 (ヤマハミュージック)