おもしろい本に出会った。写真集だ。世界的に活躍している200人の音楽家のポートレートである。撮影は木之下晃。音楽家の撮影においては誰もが一目を置く写真家だ。1984年から85年にかけて小学館より出版された『世界の音楽家』という全3巻のシリーズは大評判となり、“音楽家を撮る”木之下の名前を不動のものにした。といっても近寄りがたいような雰囲気はまったく見せず、とても気さくで飄々とした人柄だ。(『世界の音楽家』は現在『『マエストロ 世界の音楽家─木之下晃作品集』全1巻として小学館より出版されている。)
今回の写真集では、すべてのシーンに同じ石が登場する。白く、鶏卵よりは大きいが手のひらで包めるし、口にもくわえられるサイズだ。上から見ると78mm×44mmあり、重さは160g。この石は木之下が1974年5月3日に相模川上流の水無川で家族とバーベキューを楽しんでいる時に、河原で偶然見つけたものだそうだ。写真家に拾われたことがこの石の運命を変えた。とりあえずは17年あまりの長きにわたって木之下の机上に置かれかたままだったが、1991年に初めて写真撮影の小道具として木之下の作品に登場することになった。その後、撮りたい、と思ったアーティストに「この石を見て感じたことをカメラの前で表現して下さい」とアプローチしつづけて18年。折に触れて撮りためられた写真が、このたび写真集としてまとまったのである。
巻末のインタビュー(p.423)で木之下は語る。「この石はほんとに不思議な石ですね。やっぱり私は天から降ってきたのだと思っています。丸くて、ただの普通の石なのですよ。でも見る人によって卵に見えたり、いろんなものに見えるわけで、だから食べちゃう人もいるわけ。もうちょっと違う石だったら、こういうことはできなかったと思います。」対談相手であり、本書の編集に携わった大原哲夫が「この“石”はもう世界中、どこにもない石ですね。世界のマエストロたちにこれだけ、さわられ、頬ずりされ、囓られ、投げあげられた石はほかにはありません。天然記念物にしてもいいような石ですね(笑)」と受けるが、木之下も「この“石”を多くのマエストロたちが直接持ったことで、まちがいなく石がエネルギーを持ったと思います。世界の一流の芸術家が、これだけ次々とかかわったことで不思議なパワーが石に入り込んだんですね」と応じる。
写真はすべてアナログのモノクロ写真だ。グレーの階調にえもいわれぬ柔らかさがある。それぞれのアーティストがその石を好きなように扱い、そのシーンが撮影されていく。何気ない仕草のショットでも、その人の深い内面があらわされているように感じる。手に持つ人、口を使う人、頭に乗せる人、足で挟む人…、その行動は千差万別だ。見開きページの右側に写真が掲載されているが、左側には写真のイメージの糸口ともなる見出しの一行とともに、アーティストの簡単な略歴、および木之下による撮影時の思い出が書かれている。たった数行の思い出だが、実に印象深い。
1ページずつゆったりと繰り、アーティストの声や人となりを想像し、木之下のコメントを楽しむ。休暇の日の昼下がり、革張りのソファにゆったりと身を委ね、かぐわしいコーヒーの香りとともにゆっくり流れる時間を楽しむ──そんなシーンに似合いそうな一冊だ。(飛鳥新社)