『ピアノと向きあう』奥千絵子

110120「芸術的個性を育むために」

まさに「かゆいところに手が届く」本である。ピアノの演奏に習熟していく過程で生じるさまざまな課題のとらえ方と、それらを解決するための段取りがわかりやすくまとめられている。あとがきに著者自身がいみじくも「書きながら、おこがましくも“このような本が私の学生時代にあったなら”と思ったことは正直否めません」と述べている通りだ。
 
音楽に限らずスポーツでも何かをマスターする過程では、その道の達人から個人的に与えられるさまざまなアドバイスが大きな力となる。独学も楽しいが、いったん壁にぶつかると停滞しやすい。たとえばウォーキングからジョギング、そしてそれをフルマラソン走破につなげた上である程度のタイムをクリアするには、それなりのノウハウが必要だ。ピアノも同じである。ピアノは誰でも初日から音が出せる安定した性能の楽器だが、《ネコふんじゃった》や《エリーゼのために》ぐらいまでは自力でたどりつけても、その後の道のりは長い。きちんとした指導者のアドバイスなくして大きな発展は望めないのが現実だ。
 
しかし、教師の指示を鵜呑みにして従うだけが勉強ではない。何が欠けているのか、なぜその練習が必要なのか、それを行うと何がどう変化するのかを知っていれば、練習時のモティベーションもあがるに違いない。また──これはここに書くべきかどうか迷うところだが──「ピアノ教えます」と看板を掲げている先生たちの多くも、いったいどこまで本当にピアノ奏法のことをわかっているのか、はなはだ心もとないのである…。
 
本書は「できるだけ充実した効果的な練習をめざしたい生徒」および「生徒それぞれの状況に即した指導を行い、さまざまな疑問に真摯に対応しようと切磋琢磨している先生」双方に役立つバイブルだ。著者みずからが演奏家・指導者として体験し、悩んできたことへの答えが、あたかも天からの啓示の如くまとめられている。それらがいかに「実践への手引き」として生きた知識の宝庫であるかは、巻末の「困ったときのQ&A」を読んだだけで納得できるだろう。
 
何か楽器を習っていると「技術の習得」と「音楽性の向上」を別個に極めたくなることがある。「うまくなりたい」と念ずるあまり、「まずテクニックを身につけよう」と思ってしまうのだ。世の指南書の多くは、この要求に応えるべくまとめられている。しかし、技術ばかりを高めても光は見えない。高度な技術は、より緻密で個性ある音楽を表現するためにこそ必要となるものだ。「何のために」という目的を失ったまま機械的な練習を積み重ねても、音楽する喜びには到達しない。本書はそこへの入口となってくれるだろう。「音楽の構造を理解する」ことへのアプローチもたっぷりだ。
 
とは言え、もともと文字によって説明することが困難な音楽である。その奏法となると、三次元の動きとともに、重心移動のような「見えない動き」の説明も欠かせない。実際の動きを真似しながら初めて会得できるような奥義をも「言葉で説明できる限界に挑みたい!」という著者の気迫を正面から受け止められる読者層は、第一に意欲に満ちたハイレベルのアマチュア、あるいはプロの卵たちだろう。そしてそれをサポートする教育現場の先生たちにも必ず役立つに違いない。隅から隅まで読破するのも無駄ではないが、生きた技術を身につけるためにはこの本をまずはあえて斜め読みし、気になったところを「机に向かって考える」のではなく「楽器に向かって試してみる」利用法をお薦めする。(春秋社)