「作曲家 人と作品シリーズ」の中の一冊だ。9月に刷り上がったばかりだから、ベートーヴェンの伝記として、現時点では世界でもっとも新しいものだろう。ベートーヴェンの生涯を追った伝記の部分とともに活気にあふれた言葉でまとめられたジャンル別の作品解説、それに年譜や作品一覧、参考文献リストと人名索引が加えられた、コンパクトながらも配慮の行き届いた、便利で魅力的な書物になっている。サイズもちょっと小ぶりなB6判で片手でも支えられるし、電車の中で読むにも無理のない大きさだ。
誰のものであれ、伝記をまとめるのは大変な作業だろう。一筋縄ではいかない、奥の深い世界に違いない。アントン・シントラーという、実際にベートーヴェンの世話をした人が書いた伝記が最初のものだったが、それ以来今日までに数多くの研究者たちがベートーヴェンの伝記を発表してきた。「伝記」とはその対象となる人の生涯をふりかえり、その実態を客観的にまとめた文献だ。膨大な資料を検証し、そこから真実だけを洗い出していくのだが、手間がかかることは言うまでもない。しかし客観的であるべきところに著者の主観が混在してしまうところが、伝記のおもしろさでもある。ベートーヴェンの場合は研究者の数も多く、たくさんの専門家によって積み上げられた史実としての研究成果も半端な量ではない。それでもなお、まだ不明の部分も多々残っている。研究の余地はまだ残されているのだ。
平野が提供してくれる最新情報は何だろう、とわくわくしながら読み進んだ。何といっても日本語が平易で読みやすいのはありがたい。すんなりと頭の中に入ってくる。そんな中、ふとある一節に目がとまった。
…一方で、オーバーデーブリングから持ち帰ったエラール・ピアノで新しい「ハ長調」ソナタ(作品五三)の作曲を進めている。これまでにない強弱のコントラストを明確に打ち出し、初めてダンパー・ペダル記号まで書き込んだ新しいタイプのピアノ・ソナタだ。…(70ページ)
ベートーヴェンはこと音楽においては常に「さらに先の可能性」を求めてやまなかった人物で、新しいモデルのピアノを入手すれば、即座にその新性能を駆使した作品を創作した。現代ピアノではスタンダード仕様となっているペダルは、実はベートーヴェン時代に開発されたものなのだ。それまでは足で操作する機構ではなく、楽器下部に取りつけられたレバーを膝で押し上げることによって、同等の効果が得られていた。ベートーヴェンが1802年まで使用していたピアノはまだこうした旧式のものだったというのが従来の通説で、1803年に入手したフランス製のピアノにて初めて「ペダル」が使えるようになり、作品にもその指示が書き込まれるようになった、という見解は間違いではない。
しかし1802年に作曲された「テンペスト」という愛称を持つピアノソナタにも、この新しいペダル指示が書き込まれているのだ。いや、「書き込まれている」かどうかは検証できない。なぜならこの作品の自筆譜はすでに散逸してしまったからだ。筆者に質問してみたところ、ほどなく返答があった。
「テンペスト」の自筆譜は消失しているのですが、例外的に二種類の初版譜(ネーゲリ版とジムロック版)があります。これらを確認すると、両版ともにペダル記号を使った指示があります。ということは、2社が版下として使用した浄書写本(コピストによるものだろうと思います)にはすでにその指示があったと考えられます。自筆譜にないものをコピストや出版社が勝手に加えたということも考えにくく、もしかしたら失われた自筆譜にすでに明記されていたのかも知れません。となると、この作品を作曲していた時にベートーヴェンが使っていたピアノにはぺダルが装備されていたということになり、改めて1802年頃のウィーンのピアノを調査する必要があると思います。
これをきっかけにまた一歩ベートーヴェン研究が進むことになるのかも知れない。終わりのないのが研究の魅力である。本書もベートーヴェン研究のひとつの通過点として貴重な存在となるだろう。 (音楽之友社)