ピアノの勉強方法にはさまざまなパターンがある。それぞれが奥深い。指の訓練も欠かせないが、知識面からのサポートも有用だ。今回は「世の中にはこんなことに興味を持つ人もいるのか」と驚く、限りなくマニアックな本を紹介したい。
バロック時代に作曲された鍵盤楽器の作品を演奏する際に推奨されていた、ほぼ250年前の運指法をまとめた本である。鍵盤楽器用の運指(指使い)は現代では数字の1〜5で表され、適切な組み合わせが見つかると弾きやすく、演奏も安定する。演奏に習熟し、経験も積んでいないと良い運指は見つけられないだけに、当時のエキスパートたちが残した情報には大きな価値があるのだ。著者も「あとがき」で述べている通り、このような古い時代の運指法だけに特化された本は、今日までほとんどないに等しかった。
録音として音楽を保存する方法がなかった時代、作曲家は作品を紙に書いた楽譜にするしかなかった。紙上には「どんな音の組み合わせをどのような長さとリズムで弾くのか」を端的に示す音符はもとより、さまざまな記号や言葉によって「こう弾いてほしい」という作曲家から演奏家への要望が書き込まれている。より緻密な演奏表現のためには強弱の変化も欠かせないが、アーティキュレーションと呼ばれる領域も大切だ。アーティキュレーションとは、旋律につけられる句読点のようなものと思えば良い。このつけ方によってメッセージの内容が作曲家の意図と違ってしまうことがあるのは、文章も音楽も同じである。
音楽におけるこうした機微の多くは、音符とセットで書き込まれるスラーという線やスタッカートという点で表示されるが(古い時代ではこれ自体もそう潤沢には書かれていない)、実は運指のために添えられた指番号も大きなヒントを与えてくれる。これによってその旋律の歌わせ方が明らかになったり、どの音を強調すべきかに気づくことがあるのだ。また、時代による運指テクニックの変遷も興味深いポイントである。現代とはまったく異なる「常識」があったのだ。
この本にまとめられている情報の多くは、作曲家たちが活躍していた時代に出版された理論書に掲載されている。当時の音楽に精通したいのであれば避けて通るわけにはいかない、スタンダードの文献資料だ。これらの多くはすでに邦訳されているが、正直なところ「読んでおもしろい」ものではないのが玉に瑕である。また言い回しも古風で、通読しただけで理解できるとは言い難い。
ものぐさで、こうした難解な理論書を紐解くまでの勇気はないが勉強意欲だけはある演奏家、あるいは学生たちのために、著者橋本は本書とは別に、とても貴重で便利な参考書も上梓している。2005年に出版された『バロックから初期古典派までの音楽の奏法──当時の演奏習慣を知り、正しい解釈をするために』という本だ。とても読みやすくわかりやすい構成になっており、「装飾音」「リズム」「テンポ」…のようにまとめられた各項目には上記の理論書やその他の資料に書かれている大切なポイントがまとめられ、誰はどのような意見を述べ、どんな傾向があり、そうした解釈が時代の流れとともにどのように変化していったのか、などが「読んでわかる」ように解説されているのだ。
「読んでもすぐにはわからない」「意味はわかるがピンと来ない」のが昔の理論書の難点であることはすでに述べた通りだが、そこには原語を日本語化する際の困難もあろう。「原著に忠実に正確に、しかもわかりやすく」という課題を解決するのはとてもむずかしい。橋本の著作の特徴は、この「難解」というハードルを飛び越えて物事の核心に触れることのできる喜びとともに、「役に立つ脚注」にもある。専門書では本文への注が章の末尾や本の最後尾にまとめられていることが多いが、このようなレイアウトは読者にとって決して使いやすいものではないからだ。
運指法の本の紹介が先になってしまったが、まずは『バロックから初期古典派までの音楽の奏法』を読むのが正しい順番だろう。耳に心地よい旋律がどれだけ多くの理論と思考によって支えられているのかがわかれば、今までとはまた違った音楽の楽しみ方も芽生えてこよう。 (音楽之友社)