「活字離れ」が心配される今どきの小学生や中高生にとって、活字を読んで文脈を理解するのはしんどい事なのだろう(もちろん大学生以上も例外ではない…)。必要に迫られない限り、文字ばかりの本を自発的に読むことは、あまり期待できそうにない。受験の課題にもなっている長文読解対策あたりが、本と出会える限られた接点なのかも知れない。
幼少の頃から「本の虫」といわれる人もいるが、私はそうではなかった。「読む(見る?)」といえば漫画。漫画だけは寸暇を惜しんで愛読した。私が幼かった時代にも漫画週刊誌はたくさん発行されており、友人間のコミュニケーションのためには押さえておくべきポイントのひとつだった。『紫電改のタカ』『おそ松くん』『鉄腕アトム』『サイボーグ009』『エイトマン』『あしたのジョー』その他の作品は、いまだに忘れることができない。
そうした漫画と並行して読んでいたはずの「活字の作品」に関する記憶は、かなり曖昧だ。しかし中学に進学してから半ば強制的に読まされた作品の印象は強烈で、それは自分に突きつけられた「大人の世界」への入口となった。
私が進学したのは私立の男子校だったが、文部省(今日の文科省)の指導要領からはかけ離れた独自のカリキュラムによる教育を行う学校で、「中学生向け」などという配慮はどこ吹く風の本が新一年生全員に手渡された。1冊目は高見順の『激流』だった。その後に配られた北杜夫の『楡家の人々』にしても本格派の文芸作品であり、数十年経った今も私の書棚に並び、未だに衰えることなくその存在を主張している。その当時、こうした作品を読むことは「何としても最後まで読破すべし」という忍耐の訓練のようにも感じられた。
こうしたいわばコワモテの書籍と並行して配布された一冊が本書である。装丁も文体もずっと親しみやすい。中学生になって「これから大人の世界に近づいていくのだ」と気負っていたさなかにこの本に出会い、いろいろ考えさせられたことを、鮮明に覚えている。
若年層向けに書かれていながら、大人が読んでも充分な手ごたえがある作品は数多い。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』もそのひとつだろう。初めて読んだ時に感じたこと、しばらくたってから再読して発見したこと、ずっと後になってから改めて読み返して見つけたこと──こうした名作は読む人の成長とともに、さまざまなことに気づかせてくれる。
物語の主人公は本田潤一、あだ名が「コペル君」という15歳の中学生だ。でもこのコペル君は戦前の中学生であり、あなどってはいけない。現代の中学生と比較するとずっと大人だし、賢そうだ。偉いのは「自分で考えよう」としていること。今の若者に不足している側面だ。いくら知識ばかり豊富でも、「指示待ち」「マニュアル遵守」ではだめなのだ。
このコペル君が、大学を出てから間もない法学士の叔父さん(コペル君の母の弟。大銀行の重役だった父は2年前に逝去)との交流を通していろいろ感じ、考え、行動する様子が描かれている。すごいのはコペル君だけではない。くだんの叔父さんも「大学を出てから間もない」にしてはずいぶん大人だ。何から何まで21世紀とは様相が異なるようである…。
私自身も久しぶりに読み返してみたが、読み応えは充分だ。文章は平易だが、そこにはとても大きな「何か」がある。「何か」は読む人によってさまざまだろう。大人になってから初めて読んだとしても、とても新鮮に違いない。
自分で読み、何かを感じ、その本を子や孫にプレゼントし、いつかその印象を語り合えるのならば、こんな素敵なことはない。携帯端末のゲームのように孤独なデジタルの世界に一旦距離をおき、今一度「本を読んで、その感想を語り合う」というアナログな世界と時間を取り戻すためのアイテムとしても最適ではないだろうか。筆者の手許にあるのはワイド版岩波文庫のものだが、通常の岩波文庫やポプラポケット文庫など、複数の選択肢が提供されている。(岩波書店)