『モーツァルト家のキャリア教育』久保田慶一

140413カバーにはかわいいイラストがあしらわれ、副題は「18世紀の教育パパ、天才音楽家を育てる」となっている。思わず「楽しい娯楽本か?」と期待してしまいそうだが、内容はとても手堅い、立派な研究書である。とは言うものの、読んでいて眠くなるようなことはない。モーツァルト父子の間で交わされた数多くの手紙を軸に、モーツァルト家における「音楽をビジネスとしての捉えるための心構え」が生き生きと語られているからだ。
 
モーツァルトに関する書籍も数多い。先月紹介したベートーヴェンの交響曲第9番にまつわる書籍(『〈第九〉誕生』)の時と同様に国立音楽大学図書館でタイトルに「モーツァルト」を含む和書を検索してみたところ570冊、「Mozart」を含む洋書は973冊がヒットした。洋書はモーツァルト、ベートーヴェンともほぼ同数だが、和書の数ではモーツァルトがベートーヴェン(379冊)を凌駕している。しかし本書のような切り口でまとめられたモーツァルト研究は初めてだろう。メイナード・ソロモンによる大著『モーツァルト』(新書館)にもモーツァルト父子のあいだに生じていたストレスを「親離れ・子離れ」という視点から捉えた考察が提示されていたが、久保田の解析レベルには達していない。
 
本書ではまずモーツァルトの父、レオポルトの生い立ちや家庭環境が詳細に紹介される。「天才児モーツァルトを育てた教育者としてのレオポルト」がどのようなキャリアを積み、どういう価値観の持ち主だったか、という情報は、息子ヴォルフガングの成長を評価していく上で欠かせない重要事項だ。そればかりでなく、実はこの本の主人公は息子ではなく、父親レオポルトなのである!
 
昨今は日本の大学で「キャリアガイダンス」なるものが重要視されるようになり、「キャリア支援センター」などを設置しているところもある。巷の大学は「教育と研究の場」というよりは「社会人として生計を成り立たせるために必要なスキルを授けるところ」に変化しつつあるようだ。就職率が高く、報酬が有利な分野が注目され、就職率が良い大学に人気が集まる。
 
著者と私はたまたま同じ音楽大学で教えているのだが、『ビヨンド タレント:音楽家を成功に導く12章』(水曜社)を上梓したアンジェラ・ビーチング女史(音大生のキャリア支援におけるエキスパート)の講演会を学内で開催するなど、久保田は学生向けのキャリア支援も推進するキーパーソンだ。モーツァルト家のキャリア対策を語るに最適な研究者であることは間違いない。
 
本書の帯には「子供を芸術家に育てたい親、必読!」というキャッチコピーがあるが、「子供が芸術家になってしまいそうな親、必読!」とした方が当たっているかも知れない。子は親の思い通りには育ってくれないからだ。だが帯の続きをたどって行きつく本の背表紙の部分に印刷されている「現代のキャリア心理学の視点からモーツァルト父子の手紙を分析。時代の荒波のなか、懸命に自己実現をめざしたふたりの姿から、芸術家にとっての成功とは何かが見えてくる!」というフレーズは正鵠を得ている。
 
本書の内容は大きく五つの部分に分けられ、「引き裂かれたキャリア(若き日のレオポルト)」「したたかな処世術(経験に学ぶレオポルト)」「息子の就職問題(挫折するレオポルト)」「息子の結婚問題(破綻におびえるレオポルト)」「姉ナンネル(レオポルトとヴォルフガングのはざまで)」という構成だ。「今までは存在しなかったモーツァルト本」であることが、おわかりいただけるだろう。
 
あとは読むだけだ。読者の期待を裏切らない内容である、と信じている。(アルテスパブリッシング)