前回は「とんでもない評論家」の迷文を集めた本を紹介させていただいたが、今回は「すばらしい評論家」の紹介だ。藤田晴子である。2003年秋に惜しくも故人となった藤田は、日本の音楽界にあってピアニストとしての視点から書かれた評論を数多く発表し、啓蒙という観点からも大きな役割を果たした、貴重な存在だった。
評論の柱のひとつは演奏会の批評だ。どんな演奏も短絡的に批判・糾弾することなく、演奏家が内包しているプラスの面を誰にもわかりやすく紹介してくれた。藤田の落ち着いた、慈愛に満ちた評論にほっと安堵し、力づけられたことのある演奏家は私だけではないだろう。 そうした多くの評論の中から厳選されたものが一冊の書籍として上梓された。収録されているものは演奏会評ばかりではなく、恩師レオ・シロタの回想など多岐にわたった興味深い内容のものばかりだ。目を通してあらためて実感するのは、藤田の文章の自然さと明解さだ。誰もが日常生活で使う平易な語彙を駆使しながら、音楽の核心と陰影を明確に際だたせていく。
コンサート会場で見かける藤田は、いつも柔和な雰囲気をたたえた「敬愛すべきおばさま」だった。すれ違えばもちろんご挨拶申し上げるが、それ以上の会話を交わしたことはなかった。しかし本書を読んで、この一見物静かなおばさまが実はとてつもない才媛であられたことに驚愕した。幼少の頃はライプツィヒで暮らし、帰国後はピアニストとして頭角をあらわしたあと東京大学法学部に女子一期生として入学する。卒業後は法学部助手、そして国立国会図書館の主事、政治行政局課長、政治行政局主事、その後は調査立法考査局に専門調査員(事務次官級のポストとのこと)として在籍し、八千代国際大学教授として憲法学を担当するなど、男中心の社会環境の中に彗星の如く現れた、雲の上のエリートだったのだ。藤田の音楽評論が、国家公務員としての本業の余暇にこなされた副業だったとは、ついぞ考えつかなかった。
「能ある鷹は爪を隠す」とはこのことだろう。国家の機関内で飛び交っていただろう難解な表現とはまったく無縁の論調で、音楽の論評を単純明快に組み立てていく。評論の内容を吟味すれば今日のとらえ方と多少異なるところはあるものの、血の通ったコミュニケーションの手段として音楽を慈しむ愛情には、ほのぼのとしたものが感じられる。演奏家の性格がその演奏に反映されるように、藤田の人柄は、その文筆ににじみでている。その暖かさが懐かしい。(音楽之友社)