『ピアニストの脳を科学する』古屋晋一

120420脳科学・身体運動学からひもとく、音楽する脳と身体の神秘」

ピアノストの指の動きと、それをコントロールする脳の活動の関連が、とてもわかりやすく書かれている。「練習して弾けなかったことが弾けるようになると、脳や身体はどう変わるのか」という視点からのアプローチが新鮮な、今までお目にかかれなかった内容の本である。
 
長年の訓練によって育成されたピアニスト特有の手指の運動は見ているだけでも華麗だが、「どのようにするとこんな神業のような動きが可能になるのだろう」という点は、多くの人にとって謎である。訓練なしに会得できない技能であることは、誰の目にも明らかだ。これに関連する研究は欧米でも行われていた。しかしその成果はごく一部の学術関係者の間で共有されているだけで一般の人に容易に理解できるようなものではなく、ましてやピアニストたちにフィードバックして役立てられるようなものでもなかった。それら先行研究の内容をふまえた上で自分自身の研究成果をまとめ、それを誰にでもわかり、楽しめ、利用できる本として集約した古屋の功績は大きい。
 
古屋自身も3才の頃からピアノの練習に励み、かなりのレベルまで到達した。趣味とはいえ音楽コンクールに入賞したりリサイタルを披露するなど、いわばプロ並みのピアニストだったのだ。しかしその古屋も大学時代に手を痛めてしまった。それをきっかけに「ピアノと身体の動き」に興味を持ち、自分の研究フィールドとすることになったという。いわば「医学、工学と芸術を融合させた研究(あとがきより)」というわけだが、本書にまとめられた内容は誰もが、そしてピアニスト自身もが「どうなっているのだろう」と疑問に感じていたポイントばかりである。
 
たとえば「楽譜を読む能力」に関して。これは暗譜のメカニズムや初見演奏の能力と深い関連がある。またピアニストの脳内には、演奏中にミスタッチを予感し、それを無意識に修正しようとする運動回路が作られているという。それ以前に「ピアニストの指はなぜあれほど速く動くのか」という素朴な疑問、日々の練習によって脳はどのように変化していくのか、また何時間でも弾き続けられるピアニストの持久力の背景には何が隠されているのか、などなど。また、ピアノの音色は変わるのか、変えるためにピアニストは身体をどう使っているのか──ひいては「演奏に感情を込めるとはどういうことなのか」ということも、脳波や筋電図(筋肉の収縮を電気的データとして読み取ったもの)が駆使された科学的なデータによって解説されていく。またそれらは決して無味乾燥な科学データの解説に終わるのではなく、古屋自身が音楽とピアノをこよなく愛する気持ちが行間からあふれ出ているのだ。
 
「日々の練習によって変化する脳」の究極が、最近耳にすることが多くなった「フォーカル・ジストニア」という病気の発症だ。直接生命を脅かす病ではないが、ピアニストとしての生命は断たれる危険性が極めて大きい難病である。本書にまとめられている「発症の危険因子」「治療法」「リハビリの方法」「予防」は、「脳内で何が起きているのか」がわかる、他で触れることのできないとても貴重な情報だろう。
 
最後になってしまったが、本の帯にも掲載されている、著者自身による前書きからの言葉を紹介しておこう。
 
ピアニストは、感性豊かな芸術家であるとともに、高度な身体能力を持ったアスリートであり、優れた記憶力、ハイスピードで膨大な情報を緻密に処理できる、高度な知性の持ち主です。考えてみると実に不思議な能力を持った、世にもまれな存在なのです。…本書によって、ピアニストの脳と身体のワンダーランドを、著者とともに驚きを持って旅していただければ嬉しいと思います。そして、音楽を愛する人たちが、心身に無理を強いることなく、願うとおりの音楽を真に実現できる一助となれば幸いです。
 
古屋のピアノへの愛が結晶となった本である。続編が待ち遠しい。 (春秋社)