『ドビュッシーと歩くパリ』中井正子

130114昨年のコンサートステージでは積極的にクロード・ドビュッシーの作品がとりあげられていた。パリを愛し、フランス印象派を象徴する魅力的な作品を数多く創作したドビュッシーの生誕150周年を意識してのことである。ドビュッシーが創作した音楽は、私たちを不思議な世界へと誘ってくれる。えもいわれぬ柔らかな響きに包まれ、まるで影のない世界に迷い込んでしまったような気持ちにさせられるのだ。
 
しかし「印象派」と聞いてまず思い出すのは、絵画の世界だろう。フランス印象派の画家の名前は、それこそ枚挙にいとまがない。ドビュッシーが生きた19世紀から20世紀にかけては、写実的な描写を離れた「感覚」が何よりも大切にされた時代だった。音楽もまた然り。不思議なことに、印象派の作品では視覚に訴える絵画から伝わってくる感覚と、音を聴くことよって呼び覚まされる感覚に大きな共通性がある。双方ともに寒暖の差、柔らかさにより多くの比重がかけられた感覚、風景を見たときのような色彩感はもとより、季節の息吹として頬を撫でる風や、そこに漂う香りまでもが感じられるのだ。
 
そんな独自の世界を音で構築したドビュッシーの生涯を追いながら、それを耳で味わい、写真を通じて目でも楽しもう、という本が上梓された。執筆者の中井正子は国際派のピアニストだ。まだ十代の頃からパリに留学し、フランスの感性を柔軟な感性によって身につけ、なかなか言葉では説明できないフランス文化の神髄を100%自分のものとする数少ないアーティストだ。本書を入手するとまず中井のエッセイが楽しめ、彼女の演奏も堪能できる。添付されたCDで聞ける作品の解説を担当したのはご主人でもある小鍛治邦隆だが、彼もまた世界の第一線で活躍する作曲家だ。
 
しかし本書を手にとってまず感激するのは、そこに印刷されている美しい写真の数々だ。それもそのはず、これらの写真の多くは中井の友人でもあるパリの写真家フィリップ・ドラゼーによって撮影されている。プロの写真はやはり違う。単なる挿画に終わるのではなく、その写真からパリの雰囲気があふれ出てくるように感じられるのだ。パリを訪れたことのある人ならば、そこにある街の喧噪や空気のにおいを即座に思い出せるだろう。写真すべてがドラゼーによるものではなく、著者が撮影したスナップも多く使われているが、色調も整えられ、プロの手による写真とのギャップができるだけ生じないよう、うまくレイアウトされている。また余白に挿入されたイラストマップもお洒落で、この本の雰囲気を高めるための大切な要素となっている。付録のCDももちろん申し分ない音質で、本を読みながらその演奏を味わえば、ドビュッシーの心情をより深く共感することにも通じるだろう。
 
最近、こうした音源をCDの形で付録にしている書籍や雑誌が少なくない。コスト面からも十分受け入れられる値段にこなれてきたが、実は読者にとってあまり使い回しの良いものではない、と感じるのは私だけだろうか。
 
携帯用音源としてその昔はカセットが愛用され、その後MiniDisk、そして現在はmp3などのファイルを携帯用ストレージにダウンロードする、という世相になった。CD用の携帯プレイヤーも一時存在していたが、主流にはならなかった。やはりCDを聴くには、それなりの環境が欲しくなる。となると本体の書籍を読む場所も必然的に限られ、電車の中で、とはいかなくなる。またそれと別の問題点として「CDが挟まれていると本が曲がらないのでページを繰りにくい」という事もある。図書館のような場所で机の上に本を広げて読むならともかく、持っている手に本が馴染まず、しっくり来ないのだ。かといってCDを出してしまうと、ディスクのやり場に困ってしまう。 
 
CDが添付されていること自体に不満を申し立てるのではないが、たとえばQRコードも印刷して音源をダウンロードできるようにするとか、せっかくの本をより魅力的に演出するためにもうひと工夫できないものだろうか。音源が本当に喜ばしいプレゼントになるかどうかは、それを本と融合させるためのアイデア次第だろう。「CDをつければ読者が喜び、お得感を演出できる」と安易に考えてはいないだろうか。最新のテクノロジーに追いつけない層にはCDが便利ではあるものの、ダウンロードした音をiPodに入れ、パリのカフェ・ド・ラペでこの本を片手にドビュッシーを聴きながらコーヒーを楽しみ、これから行くところにどんな逸話があるのかを中井の洒脱な文章でチェックできるのであれば、もっとお洒落なのに…。 (アルテスパブリッシング)