興味深い内容には違いないが、どういう人にお薦めしたものか、迷うところだ。とりあえずはピアノを弾ける人、それもある程度のレベルに到達した人にとって有意義な参考書となるだろう。しかし音楽学生やピアニスト向きに書かれてはいるものの、ここで紹介されているような知的探索の魔力にはまってしまう可能性のある人は、もっと違うところにいるような気がしてならない。「ピアノが好きな中高年の音楽愛好家」といった層だと思われるが、プロファイリングしてみよう。
「音楽、それも古典派からロマン派にかけてのわかりやすい名曲が大好き」「ピアノ曲が好きで、余暇に自己流で弾いてみるのが楽しみ」「古文書や骨董品など古いものに興味がある」「どんなことでも真相を解明してみたいと思う」「図書館の雰囲気が好きで、大きな机に所狭しと本を広げ、それらを縦横に参照しながらいろいろ考えている自分の姿にあこがれる」「どちらかというと学究肌」「心理学に興味がある」「他人の気持ちになって物事を捉えてみるのが好き」など、など…。
本書は「出版楽譜や原典資料の差を知り、そこから導かれる考察を自分の演奏に反映させよう」という趣旨でまとめられた入門書だ。本来の読者ターゲットは演奏家なのだが、ともすると直感と独断だけに頼ってしまう安易な人々に納得してもらい、こうした作業を実践させるのは容易ではない。だが、これもまたひとつの音楽の楽しみ方だ。「知る楽しみ」は奥が深い。一生を通じての趣味となり、ひょっとすると今まで誰もが気づかなかったような発見や新しい見解・解釈に至ることも夢ではない。
「作曲家が作品を創作する」ということは「紙の上に音符を書く」ということだ。現代でこそパソコンで音符を入力できるようになったものの、以前は「手で書く」以外に方法はなかった。下書き、作業中の楽譜、その清書、そして出版社に版下として提出するための筆写譜など、さまざまなレベルの「手稿(手書きの楽譜)」が存在する。それが印刷譜にまとめられて出版されるのだが、そこには単なるミスプリントとともに、最終段階で作曲家が行った添削や変更といった要素も含まれている。
資料間にある差違が「誰の指示によって行われたか」「それはなぜか」を時間軸に沿って解明していくのがエディション研究の王道だ。「印刷譜の版下を制作する際に生じやすいミスプリントのパターン」もある。作曲家が直接関与していない出版では、出版社お抱えの「わけしりの先生」によって、原曲の細部が勝手に変更されてしまうことも少なくない。
まずはこうした違いに気づくこと。そしてそれがどのような状況において起こったかを追跡することによって作曲家の真意がより明白になる。こうした知識を得た上でCDを聞きくらべてみるのもおもしろい。演奏家に「お、おぬし、知っとるねえ」とか「なんだ、思慮深い振りをしているだけじゃないか」などと心の中で語りかけながら、ひとりひそかにほくそえむ楽しみが得られるだろう。
エディション研究の実践とは、「探偵になろう。不自然なところを見つけよう。それがなぜかを解明しよう」ということなのだ。推理小説と同じ、ミステリーなのだ。場合によっては五線譜用紙の製造元の究明から、作品の成立時期が見直されることさえある。
「実際にどうするか」は経験に負うところが大きいし、必要な資料の入手方法やそれらの評価にも当初は経験者によるアドバイスが欲しいところだ。資料に関しては、昨今インターネットで閲覧できるものが増えたことが喜ばしい。また所蔵資料をネット上で検索できる図書館も多くなった。見つけた資料は、料金さえ払えば誰にでもコピーを送付してもらえるシステムも整ってきた。
まずはどんな世界なのかを知るために、一読をお薦めしたい。ワクワクドキドキに満ちた、未知の世界への重い扉が開かれんことを願っている。 (音楽之友社)