ピアノを教えることは、私の大切な仕事のひとつだ。そんな時に折に触れて使う表現がある。曰く「そんなふうにピアノの調律師みたいな弾き方で音を出してはいけません」。感性の良い学生はこの言葉だけで納得し、音の響きが即座に変わることも少なくない。
「調律師みたいな弾き方」とは、伸びのない、耳ざわりな音を出す打鍵のことで、西洋の音楽を奏でるには適さない。楽器の音は弾き方によって大きく変化するが、そこが「生楽器」のおもしろさでもあり、奥の深さでもある。電子楽器と違うのは、正にそこなのだ。楽器に触れる機会のない人でも、仏前の鐘を鳴らす時にうまく響いたり響かなかったり、という経験はあるだろう。
ピアニストにとって調律師は欠かすことのできないパートナーだ。ピアノはしばらく使っていると各音の高さが狂い、響きがにごってくる。たとえ使っていなくても温度や湿度によって状態が変化するやっかいものだが、そんな時には調律師に調律をお願いし、ついでにアクションの調整も依頼する。音の高さを合わせるにはひとつずつ打鍵して音を出し、それを耳でチェックしながらチューニングハンマーを操作するのだ。1台のピアノには230本あまりの弦が張られており、毎回そのすべてを合わせ直してもらうのだが、この際の打鍵が中途半端だと、せっかく調律しても仕上がった状態が長持ちしない。それもそのはず、プロのピアニストが渾身の力を込める打鍵が弦に与える衝撃は半端なものではなく、それに耐えうる調律にはそれなりの技術と経験が要求される。そのひとつが「調律の際には強めの打鍵も必要に応じて活用する」というものだが、これが実は著者で調律師である斎藤が「そのような弾き方をしてはいけません」と強く糾弾するタッチそのものなのである。
この「演奏家がやってはいけないピアノのたたき方」がどのようなものか、それをついやってしまう原因がどこにあるのかの究明が本書のキモのひとつである。斎藤はその背後に「日本人は膝をまげたまま歩く」という癖と同質のものがある、と解き明かす。日本人としてのDNAがそうさせるのだろうか。東洋(日本)と西洋との思いもよらぬ差は、歩き方ばかりではなく、さまざまな道具の仕様と使い勝手にも存在している。のこぎりもそうだし、やすりも然り。日本の鍬と西洋のスコップ。箸とフォーク。スポーツや日常の身のこなしにおいてもそのような感覚の差が存在するという。
こうした差は、たとえばお祭りの和太鼓と洋楽のオーケストラで使われる太鼓(ティンパニや大太鼓、そしてスネアドラムも)の音の出し方にもあらわれる。こうした「音」に関する文化と日本的な嗜好は、以前このコーナーでも紹介した中村明一の『倍音』に書かれていることとも大きな関連がありそうだ。本書ではこうした発想の数々が次から次へと提示されるだけではなく、普段は限られた人しか目にすることのない調律師の仕事についても生き生きと語られている。
「自分の家で休眠しているピアノを再活性してみませんか。売り飛ばすのはもったいない。ピアノを弾くって楽しいですよ。そんなに難しいことではないですから」という著者の熱い願いがあってこそ生まれた本だろう。最終章にはコードネームを駆使して楽譜を理解しよう、というアプローチも紹介されているが、このあたりは「わかっている人には簡単だが、わからない人には難しいまま」の話題かも知れない。それでもなお余りある「目からウロコ」的発見が、本書から期待できそうだ。 (DU BOOKS)