『合理的避戦論』小島英俊

20140814_314106このところ日本を取り巻く国際情勢に落ち着きがない。「平和ボケ」という言葉は、もはや死語となった。のんびりムードに浸りながら自国の発展と経済成長を追い求めていた時代は過去のものとなり、中国との摩擦、韓国との不和、予知できない北朝鮮の行動、譲らないロシアなどなど、日本と海を隔てたアジア諸国の状況は、決して甘いものではない。ただ、向こう側から見れば、現在の日本の政治の動向もかなり不愉快であるには違いなく、だからこその態度なのだろう。すべての国が疑心暗鬼になっている。
  
ヨーロッパをはじめとした大陸のように、日本と他国との国境が「地図上に書かれた、ただの線」であれば、日本人も生ぬるい風潮に浸っていられるはずもなく、外交もずっと賢いものになっていただろう。大昔、元寇の時には台風がその危機を救ってくれたが、明治維新の際にはそれもかなわず、国家の存亡を賭した外交手腕が問われることになった。それにしても「みんなと同じがいい」となり勝ちな日本人のメンタリティーにはどこか「脇の甘さ」が感じられると思うのは、私だけだろうか。
  
日本はその後二回の世界大戦を経験し、最終的には敗戦国として辛酸をなめた。そこに至るまでの歴史の中にあった平和に対する価値観、そして第二次大戦後の平和の推移が、本書にはわかりやすくまとめられている。冒頭の章として紹介されている著者と東郷和彦(元外務省欧亜局長・オランダ大使)の対論も興味深く、現在の日本が置かれている国際情勢の中で何が問題になっているのかがよくわかる。
  
国際問題として気になるキーワードの中で主なものは「集団的自衛権の行使容認」「憲法第九条の解釈」「中国との尖閣諸島領有権問題」「韓国との竹島領有権問題」「韓国との従軍慰安婦問題」「自衛隊の扱い」そして「北朝鮮との拉致被害者問題」あたりだろうか。マスコミの報道だけを鵜呑みにしていては情緒に流され、誰が、そして何が正しいのかがわからなくなってしまう。もちろんこういった問題に「正解」はなく、下された判断が正当だったかの評価は歴史の中でおのずから明らかになることだろう。だがその評価ですら、見方によってはまったく正反対なものとなることも、決して珍しいことではない。
  
他人の論調に流されることなく、一度自分なりの考えをまとめたいものだ。しかし、何を頼りに考えるかが問題だ。テレビのニュースショーの中で放映される識者の討論会なども、限られた時間の中での起承転結が求められる「番組」として演出されていると考えた方が良さそうだし、第一「なぜそうなってしまったのか」という歴史的な経緯の説明が不充分なまま、目先の出来事の評価だけ、それも好き嫌いのレベルで話が進んでしまうきらいもある。「声の大きい人が勝つ」ともいうし、話術の巧みさによって信じ込まされてしまうことも少なくない。池上彰まがいの論を組まれると、思わず納得してしまいたくなる。しかし、それではあまりに安易に過ぎないだろうか。
  
「戦争を回避するためにこそ、集団的自衛権の行使容認が必要だ」というのが安倍政権のスタンスだが、それで良いのだろうか。この世界から戦争はなくならず、現在も進行中の戦争があり、いつかは日本にも戦争の危機と対峙しなくてはならない時が訪れるような気がしてならない。そんな時、自衛隊は役に立つのだろうか。同盟国であるアメリカをあてにできるのだろうか。まずは「平和」に関して日本がたどってきた道をふり返り、その結果として現在どこにどんな不具合が発生し、何が問題になっているかを再確認する必要がありそうだ。
  
問題は重く、複雑である。ちょっと調べたぐらいで結論は出ない。しかし、そういった問題でも「その道の専門家でない人が容易に理解できるように解き明かす」のが新書という書籍の課題と目的だ。本書もそれにもれず、読みやすくわかりやすく編纂されている。著者の小島の構成力と筆致に負うところが大いにありそうだ。(イースト新書033)