「若者言葉と、きちんとした国語と、この二つを使い分けるように教育することが重要であり、必要だと思う。(本書7ページ)」という著者の提言は、まったくその通りだと思う。しかし問題は、いい年をした大人までがこうした言葉をつい使ってしまうところにある。これでは若者がきちんとした日本語をしゃべれるようになるわけがない。テレビに登場する芸人たちはもちろんのこと、本来は正しい言葉を使うべき報道番組のキャスターでさえ、使えていない場合が少なくない。言質を取られまいとして曖昧な表現に終始する政治家の答弁はもとより、コンビニエンスストアやファミリーレストランの店員が口にする不思議な言葉遣いも、「大いに問題あり!」なのだ。
内館の本を読み始めると、初めこそ「そうそう、そうなんだ」「皆同じことを感じているのだなあ」と思いつつ、そこに紹介されている例文を楽しむ余裕がある。が、次第に心が重くなってくるのはなぜだろう。「どうしてこんなになってしまったのか」と憤りも感じる。それほど巷には「ヘンな日本語」があふれかえっているのだ。
言葉はコミュニケーションの手段であって、自分の感情や考えがきちんと相手に伝わり、受け止めてもらえることが一番大切だろう。言いたいこと、書きたいことが論理的に誤解の余地なく伝わることも大切だが、その時の自分の心情も伝えたい。「文字にはなりにくい、説明するのがもどかしい、あるいは説明できない心のテンション」を仲間同士で手軽に共有できるのが、若者の使う新語や言い回しであり、メールやSNSで多用される絵文字やスタンプなのだろう。それはそれで便利だが、これを使ってよいシーンと、そうではないシーンがある。入社試験の面接試験で「マジ、ヤバイっす。」などと答えたら、まず落とされるだろう。入試の小論文に (*^^)v みたいな顔文字を使うのもよろしくない。
私は大学でも教えているので、若者言葉には日常的に接している。メールでのやりとりも多い。先生に向かってのタメ口も、決して珍しいことではない。いきおい、こちらも影響されてつい「仲間同志」みたいな会話をしてしまうことがある。時にはその方が教師と学生の間のハードルが低くなってこちらの話が通じやすい、という事情もあるが、本当はやるべきではない、と思っている…。が、つい禁断の園に足を踏み込んでしまうのである。
そんな私でもひとつだけゆずれない言葉がある。それは「すいません」だ。喋る時にはさほど気にならないが、メールなどにあった場合には、必ず私から叱責のメールが返される。曰く「友達の間で、また話し言葉としてはとやかく言わないが、書き言葉、それも先生や目上の人に対しては今後二度と使ってはならない。すいません、と書いて陳謝の気持ちが通じると思ったら大間違いだ云々」
学生の中には「すいません」が正しい日本語だ、と思い込んでいる者もいる。「辞書を調べてみたら、確かにそうでした。知りませんでした」という返事をもらったことがある。大切なのは、その都度指摘してあげる労力を惜しんではいけない、ということなのだろう。
しかし「すいません」と書いて何の痛痒も覚えないのは何も学生だけではない。大の大人、立派な社会人の中でも堂々と使っている人は少なくない。さすがにこういう人たちに意見する気にはならないが、「そうか、その程度の方だったのですね」と、その人の評価が数段低くなってしまう。ここが一番怖いところだろう。言葉遣いは、その人を表し、評価に直結する。初対面の印象が決まるのだ。本書の帯にあるように「愚かな日本語があなたを滅ぼす」のである。
日本語はむずかしい言葉だと思う。敬語の用法など、自分でもわからなくなることがある。しかし、とても繊細な言語でもある。話し言葉としてだけでなく、書き言葉としても、さまざまなニュアンスを演出することができる。たとえば「七夕」「たなばた」「タナバタ」と文字種を変えることによっても雰囲気が変わるし、縦書きか、横書きかでも変化する。パソコンからの印刷物として出力するか、ボールペンで書くか、あるいは毛筆で書くかによっても印象が変わる。こんなに美しい日本語を、もっと大切にしていきたいものだ。 (朝日新書413)