『ピアノの巨匠たちとともに(増補版)』フランツ・モア 中村菊子訳

070204「人間と信仰」

モアはドイツ人だ。祖国の敗戦をきっかけにアメリカに渡り、ニューヨークのスタインウェイ社に入社、その後多くのピアニストに信頼される調律師となった。スタインウェイ社のピアノを使って世界的に活躍するトップアーティストには、その人だけに合わせた特別のサポートが提供される。あのホロヴィッツが来日した時にアメリカから持参したピアノに同行していたのが、このモアだった(ピアノを持ち歩いて演奏旅行できるピアニストは世界でも数えるほどしかいない)。
 
モアはホロヴィッツばかりでなくルービンシュタイン、ギレリス、クライバーンやグールドなどと仕事をした。こうした「雲の上のピアニストたち」のプライベートな姿に触れられるだけでも貴重な本である。とくにホロヴィッツに関してはさまざまなシーンが語られている。また別の章にまとめられているピアノのことや調律師の仕事の内容も、わかりやすい。 
 
しかし印象深かったのは音楽のことよりも、「信仰」に由来するさまざまな行為のことだった。神に全幅の信頼をおく──一般的な日本人には縁遠い世界だ。私自身も「正月は神社に行き、クリスマスはそれなりに楽しみ、納骨されるのはどこかの寺だろう」という典型的な無信仰人間だが、科学では説明できない何かがこの世に存在することは感じる。信仰によるコンバージョンという現象も否定しない。そればかりかベートーヴェンにもこうした体験があったに違いないと思う。史実としては何も残されていないが、これなしでベートーヴェンのあの精神力は納得しがたい。
 
モアは多感な17歳の時にドイツで敗戦を迎え、すべてを失った。両親は辛くも生き延びたが、兄は戦死している。モアはイエスに背を向け、神の存在を完全に否定する。そして人生の可能性を求めてアメリカへの移住を決心した。その過程で何が起き、どうしてまた信仰の世界に戻り、以前にも増して神と共に生きる道を実践するようになったかが静かに語られる。
 
クリスチャンではない読者としては「う〜む…」という気持ちももつだろう。しかし読んでいるうちにふと「心の平安とは何だろう」と考えてしまう。伝説のピアニストたちのことを知りたくて手にした本だったが、心に残った印象はまったく別のものとなった。「読み終わった」という気持ちの切り替えがうまくできずに、何となく複雑な心境である。 (音楽之友社)