『ピアノ大陸ヨーロッパ』西原稔

100529すでにこのブログで紹介した『クラシックでわかる世界史』や『新編 音楽家の社会史』の著者である西原稔による新刊『ピアノ大陸ヨーロッパ』がおもしろい。西原は18、19世紀を対象とする音楽社会史や音楽思想史の専門家だ。本書も19世紀におけるピアノ音楽の状況が柱になっている。ベートーヴェン以降の「ロマン派」としてくくられる時代のお話だ。
 
バッハやモーツァルトたちが活躍したバロックから古典派の時代、人前で演奏される作品は常に最先端の前衛音楽だった。今ではクラシックの名曲として愛されるベートーヴェンの月光ソナタにしても、その当時は斬新な試み満載の最新作だったのだ。タイトルとして明記された「幻想曲風ソナタ」というジャンルも初物ならば、ソナタの冒頭にソナタ形式以外の楽章を置くのも極めて珍しいことだったし、現代ピアノに標準装備されているペダルの前身である“膝レバー”を押し上げることによって得られる“ペダル効果”を活用する「混沌とまざり合った音響で弾くべし」という指定も、ベートーヴェンならではだ。そしてこうした最新鋭の音楽を享受できるのも、王侯貴族といった人々に限られていた。
 
ベートーヴェンが亡くなったのは1827年だ。19世紀初頭である。その後のいわゆる「ロマン派の時代」には、音楽の環境も大きく変化した。たとえばこの時代になってはじめて、今日われわれが言うところの「クラシック音楽を楽しむ」習慣が芽生えたことがあげられよう。創作されたばかりの最新作ではなく、昔の名曲が掘り起こされ、再演されるようになったのだ。忘れかけられていたバッハのリバイバルも、こうして起きた。
 
そしてもうひとつ、音楽を享受する人々の層がぐっと広がったのだ。支配者層だけではなく、裕福な市民の楽しみとして、音楽は広く浸透していった。聴くばかりでなく、弾く楽しみも一般的になる。そこで大きな役割を果たしたのが、ピアノの存在だ。大量生産を通じて値段もさがり、爆発的に売れたのだ。儲けたのはピアノメーカーばかりでない。出版社、作曲家、ピアノ教師などさまざまな職種の人々が相乗効果によって勢いを得た。こうして音楽の世界はいっきに活性化されたのだ。
 
しかしあまりに急激な変化だったため、今から当時をふり返ろうとしても把握しきれない闇の部分が生じてしまった。18世紀よりも19世紀の方が時期的に私たちの時代に近いにもかかわらず、その研究はより困難となっている。どんな作品が好まれ、誰が何を出版したかに関しても「新作が生まれ、もてはやされ、やがて忘却の彼方へ葬られる」という、現代の流行歌の盛衰にも似た激しい新陳代謝にはばまれて、失われてしまった資料が多いのだ。
 
そんな19世紀の波瀾万丈に光を当てたのが本書である。良く整理されており、この時代をターゲットとして考えている研究家志望の若者にも貴重な一冊だ。たくさんの作曲家が登場するが、初めて出会う名前も多いだろう。本書を通じて、まだまだあるに違いない“埋もれた名曲”に巡り会えうことができれば幸いだ。 (アルテスパブリッシング)