『安倍圭子 マリンバと歩んだ音楽人生』レベッカ・カイト

120818マリンバという楽器をご存じだろうか。平たくいえば大型の木琴だが、木製の鍵盤ひとつひとつに共鳴パイプがつけられ、ふくよかな、味わい深い音が出るように設計されている。もともとはアフリカの民族楽器だったものが、さまざまな工夫によって発達してきたものだ。ステージ中央に置かれた最新モデルのコンサート用マリンバには有無を言わせぬ存在感があり、その楽器を前にフットワークも軽々と縦横無尽に弾きこなすマリンビストの無駄のない動きと華麗な姿は、聴衆の目までも楽しませてくれる。
 
当初はポピュラー音楽の中でのみ使われていた楽器だが、そうした位置づけもすでに過去のものとなった。今ではクラシック音楽はもとより現代音楽のジャンルにおいて欠かせない楽器となり、大きなコンサートホールでオーケストラをバックにしたソロ楽器としても愛用されている。
 
マリンバのめざましい発展、そしてそれにふさわしいレパートリーの開発、強いてはマリンバがクラシック音楽の演奏に使われる他すべての楽器と対等の存在として認知されるまでの道のりは、それがそのまま安倍圭子の人生でもあった。大きな夢と強い信念を持ち続けてマリンバをとりまく環境の発展を先導し、世界に向けて発信していった安倍圭子の物語がここに綴られている。
 
安倍は今なおマリンバのトップ奏者として、その右に出るものがいない実力と実績をもって世界を股にかけて活躍している。コンサートはもちろんのこと、安倍が指導するマスタークラスには、それがどこで開催されようとも世界中から若いマリンビストたちが馳せ参じる盛況となる。安倍を慕って集まった若者たちが感銘を受けるのは、トップアーティストとしての技術的なアドバイスにとどまらず、安倍と接し、声を聞き、その音に触れることによって実感する安倍自身の芸術家としての姿勢なのだ。音楽に対する深い愛情、自分の信ずる道を迷わずに進む勇気、年齢やキャリアにかかわらず仲間を信頼して大切にする心、そして、その人生の中で遭遇したどんな困難をも自分の判断で乗り越えてきたことによって生まれる大きな自信と包容力によって、安倍のまわりにはいつも特別な空間が形成される。安倍と一緒にいると本当に暖かく、気持ち良く、自分にも勇気が湧いてくるような気分になるから不思議である。
 
本書に紹介されている「困難」は、安倍がその人生の中で越えなければならなかったハードルのうちほんの一部に過ぎないだろう。また、幼少の頃から安倍が示していた音楽への感受性も、並外れたものだったようだ。しかし、何よりもすごかったのは、彼女の集中力なのではないだろうか。そんな安倍の今までの人生を文章として読むことができるとは、何と嬉しいことか。
 
この書籍をまとめたアメリカ生まれのレベッカ・カイトも、もとはといえば安倍に触発されてマリンバに目覚めた仲間のひとりだった。彼女が安倍や安倍の関係者と行った長時間のインタビューをもとに客観的な視点でまとめた人生の軌跡は、またとない貴重な資料に違いない。なぜなら上述の通り、安倍の人生を語ることは、マリンバの発展の軌跡を語ることにほかならないからだ。それに加えて楽器の歴史や古今の演奏家情報、そしてレパートリーに関する詳細なども綿密に整理された上で掲載されており、マリンバの演奏を手がける者にとってはまさに必携の一冊ではないだろうか。
 
添付されているCDには安倍自身の演奏による貴重な音源がたくさん収録されている。「途中まで…」という編集が多いのは残念だが、安倍のさまざまな側面をコンパクトに紹介するためには仕方のないことだろう。隅々まで生命力と躍動感に満たされた演奏ばかりで、楽器としての限界などまるで存在しないかのように聞こえる。
 
当初は「メロディーが弾ける打楽器」に過ぎなかったマリンバをここまで成熟させた安倍の功績は、どれほど賞賛しようともしきれないほどの偉業である。楽器の改良に深く携わったヤマハの存在も大きいが、安倍が常にアーティストとして求めていた「マリンバのための音楽」、マリンバで演奏したい音楽をとことん追究するという強靱な信念とそれを支える意志の力、持続力と集中力──これらがあったからこそ、今日マリンバの世界が華あるものに成長したと確信している。(ヤマハ・ミュージック・メディア)