自分自身も還暦を迎えてみて「何か変わったか」と問われれば、「特に何も…」としか答えようがない。体力的にはその限りではないが、何とか持ちこたえている。気持ちは若いときと同じだ。「二十代と変わらない」と言って語弊があるならば、「四十代以降はほとんど変化なし」としておこう。
「そうか、もうそんな年になったか」と感じるとすれば、それは区役所から月4回無料で銭湯に入れる「ふれあい入浴証──ゆげじい」なるものを頂戴したからかも知れない。しかし還暦が人生のひとつの区切りであることは確実で、その心情は昨年10月8日のブログで告白したとおりである。
「区切り」は「新たなスタート」を意味する。新しい事を始めるのにまたとないチャンスに違いない。「60歳になったのを機会に、ピアノを始めてみよう」と考えるのも、前向きですてきなアイデアだ。
その気になれば「ピアノ教室」はすぐ見つかる。大手の楽器店が展開している全国規模のピアノ教室チェーンもあるし、個人の先生が開講しているピアノ教室も枚挙にいとまがない。こうしたピアノ教室は子供の習い事の受け皿として人気を博していたが、最近はシニア層も「経営のための大切なお客さま」として歓迎されている。しかしシニア層に特化した指導法として開発すべき課題は山積しているようだ。まだまだ詰めが甘い。
昭和の子供たちは「右にならえ」式にピアノを学ぶことが多かった。高度成長期にはピアノもよく売れ、メーカーも楽器店も羽振りがよかった。しかしそれはすでに昔話である。少子化の問題もあるし、「夢でメシは食えない」という現実も切実だ。世の中も「辛抱強く何年もかけないと上達しないものは敬遠される」という風潮になった。
一方、世の音楽大学や専門学校は懲りることなく毎年少なく見積もって数千人、おそらくは万単位の数の卒業生を世に送り出している。全員が音楽で身を立てるわけではないのは当然だが、「ピアノ教室の先生になる」というのは、身近な選択肢のひとつだ。よくあるパターンは「大手の楽器店が展開しているピアノ教室の講師になる」というもの。しかし、これは思ったより厳しい労働環境のもとにある。
であれば──恵まれていれば、の話だが──自宅でピアノを教える、あるいは自分で教室を立ち上げる、という手がある。しかしピアノ教室の看板を出しても、生徒が集まらなくては経営が成り立たない。星の数ほどある教室の中で頭角を現し、少しでも多くの生徒を集めるには、アピールできるセールスポイントが必要だ。というわけで、「子供だけをターゲットにするのではなく、シニア層をもとりこもう」というのが最近のトレンドになっているのだ。
子供たちも独立して孫も生まれ、「お金に困っていない」「時間はたっぷりある」「自宅にピアノがある」というシニアは少なくない。贅沢はできないながらもある程度の年金は貰えているし、その昔「みんなも持っているならば」と子供に買い与えたピアノが、久しく使われないまま鎮座しているケースがかなりある。
街のピアノの先生にとって、見過ごしてはならないターゲットだ。だが本気でシニア層の指導をめざそうとしても、シニア層向けの音楽教育の歴史が浅いだけに、わからないことも多い。昔ピアノを習ったことのある人ならばともかく、音符の読み方から教えなければならない正真正銘の──それも記銘力が衰えつつある──初心者の指導は、そう簡単ではない。子供の初心者用教材はどれを選んで良いかわからないほどたくさんあるが、それらを年配の生徒にそのまま流用できるわけではない。子供には嬉しいディズニーのキャラクターが印刷されていても、それで大人の意欲が高揚するわけではないからだ。
身体の機能として何ができる、何ができない、ということも、若年層とシニアとでは大きな差がある。シニア層のメリットは「説明は理解できる」ということだが、理解したとおりに身体が動くわけではない。右手と左手で違うことを同時にやるのが困難なのは誰でも同じだが、年配者はそれを克服するのに想像以上の時間を必要とする。「何が喜びか」という点でも、シニア層の感性は千差万別だ。
著者の本吉ひろみは「60歳以上で初めてピアノを習う人」に特化した教室を立ち上げ、すばらしい成果を得ている。「シニア層の指導にはグループレッスンがお薦め」というのも、経験者であればこその提言だ。本書にはそういう人たちを指導する際に役立つさまざまなアイデアが紹介されているが、それらは単なる思いつきではなく、医学的な考察や、各種の統計から読み取れるデータをふまえた、科学的な根拠に基づいたものとなっている。加齢に由来するもどかしさ、体力や記憶力の衰え、老眼の問題などなど、そこには「シニアならでは」の課題がたくさんある。「シニアを指導する」という専門性を真摯に直視し、工夫をしなければ、教室も発展しない。
余談ながら、実際のデータを眺めていると、つい「これって、私のことだよね」と、不安と焦燥に駆られてしまう。「ソロ活動に再チャレンジするぞ」と宣言してしまった今、う~む、と考え込んでしまいそうだ。
…それは単なる私情としても、「シニア層の希望をふくらませ、日々の時間を充実させるための適切な指導」には大きなビジネスチャンスがありそうだ。ビジネスから切り離した一般的なカルチャーとしても、大変有意義なことのように思われる。
ところで、シニアを指導するにはやはり指導者もそれなりの年齢であるべきだろうか? 自身の「大人のスイミングスクール体験」から、私としては先生が若くても特に問題ないように思うのだが…。要は「教え方」にある。(ヤマハミュージックメディア)